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「宗教改革から近代社会へ」(2)

野村 信 (東北学院大、アジア・カルヴァン学会書記)

Calvin07 基礎知識 「世俗内禁欲」

「世俗内禁欲」という言葉はドイツの碩学(せきがく)Max Weberが用いた言葉である。本講義においてこの用語はキー・ワードであるので、しばらく「禁欲」、ないしは「禁欲主義」という言葉と共に、「世俗内禁欲」について簡単に解説しておこう。

1、「禁欲」とは、理性や意志により、人間の欲望を抑え、時には肉体を苦しめて、倫理上、宗教上の目的を達することをいう。方法としては嗜好物の禁止、独身閑居、山中荒行などさまざまであるが、これが一定の生活態度、ないしは理論的態度をとると「禁欲主義」となる。なお、卑近な例をとれば、スポーツの選手が運動能力を高めるために、禁欲的な生活を実践することや、大学入学、資格習得などの受験者が禁欲に近い「自己節制」をするのも広義のそれにあたる。

「禁欲」という言葉の由来はギリシア語のaskesis(訓練) と言われ、動物的自然性と人間的理想性(理性)とを分けて、前者を悪自体または悪の根源とする二元論にもとづき、肉体的、感性的、世間的欲望を禁止することによって「道徳の理想」を達成しようとする。キニーク派、ストア派、新プラトン派、中世キリスト教の道徳、ショーペンハウアー等、肉体を悪と見て、苦行を要求する傾向がある。なお、カントは自由の意識において自己を道徳的に維持するための道徳的禁欲を説く。

2、キリスト教における「禁欲」は、本来聖書から派生したものではなく(後述)、もっぱら修道院において追求された。修道院は、「清貧」、「貞潔」、「服従」をモットーにして、日に幾度もの宗教儀式の実践や瞑想、また労働(知的労働と肉体労働)、真夜中の起床などを行った。これは、神に最も近い、徳の高いと考えられる人間的完成の追及を目指したものであった。これは換言すれば、「肉体と精神の浄化、聖化」、あるいは「霊的神秘感」を得ることを追求し、逆に「あらゆる物質的・肉体的な欲求を生じさせる可能性」を退けるために、質素な身なり、食事の制限、性欲の充足放棄(独身制)などを行ったと言えよう。

3、宗教改革者たちは、修道院制を廃止した。これは、修道院に入れば神に近づくことが可能であるとした思想(功績思想)に反対したためであったが、「禁欲」そのものを否定したのではなく、むしろそれが追求さるべき範囲を拡大し、それによって一層禁欲を徹底したというのが真相である。というのは、宗教改革者は「禁欲」を修道院という、世俗から切り離された場所においてではなく、世俗の中で、すなわち世俗的生活と日々の誠実な職業労働の只中で追求さるべきものとしたからである。これが、ヴェーバーやエルンスト・トレルチのいう世俗内的禁欲(innerweltliche Askese)の成立であって、禁欲の解消より、むしろその聖書的精神を強化した。この「禁欲」を特に以下「アスケーゼ」と呼ぶ。

4、同じ宗教改革者間においても、ルター派とカルヴァン派のおける立場の相違はこの「アスケーゼ」においても相違として現われることになった。ヴェーバーは、優れた宗教家が自己の救いを確信するのは、自己を神の力の「容器」と感ずるか、その「道具」と感ずるかのいずれかであると言い、前者の場合は神秘的な感情の培養に傾き、後者は禁欲的な行為に傾くとし、ルターを前者、カルヴァンを後者に近いとしている。こういう観点からすれば、カルヴァン型にだけアスケーゼは成立することになるが、ヴェーバーがその場合考えているのは、カルヴァン派にみられる組織的能動的なアスケーゼなのである。

これに対して、トレルチはルター派のように神秘的傾向のつよい場含にもアスケーゼは成り立ちうるとする。しかしその場合は、この世に属する一切のものをあげて、神の栄光のための手段として組織化しようとする能動的なものはみられず、むしろこの世の苦難を忍耐をもって受け取り、時としてこの世に属するものを神の賜物としてそのまま受け取ることはあっても、この世に積極的に立ち向かうことはなく、来世の祝福に対する究極的希望を根底にもつという受動的なアスケーゼである。

5、さらにプロテスタント圏内においては、アスケーゼは、ピューリタンにおいて独特な仕方で成立する。この点はヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において解明しているとおりである。ピューリタンのなかでカルヴァン主義の影響を受けた所では、予定の教理が彼らのアスケーゼを促進する強烈な動機となった。

そもそもイギリスのピューリタニズムはドイツの敬虔派を含めて、広義の敬虔主義といえるが、その特徴の一つは、救われていることのしるしを「聖潔な生活や宗教的な体験の中」に求める点にある。そこから救いの確証を得ようとして聖潔な生活に励むという可能性が出てくる。カルヴァンの予定説を信じたピューリタンたちは自己が滅びに定められているのではなく、救いに定められていることの確証を得るために、「組織にまで高められた聖潔な生活」を追求するようになり、「信仰によって義とされる」という立場に立ちながら、事実は善行によって義とされるというのと同じような外観を呈するに至ったのである。

6、旧約聖書においては、禁欲的修行が語られることはほとんどない。紀元前のヘレニズム宗教の中には、徹底的に現世を否定する禁欲主義を特徴とするものがあったが、ヘブライ人は創造の教理(天地創造)の強い影響下にあって、これを受け入れなかった。

新約聖書では、イエス・キリストの生き方や教えの中には現世否定的な要素と現世肯定的な要素とが、共に含まれている。主イエスの教えの中で禁欲的に響くものは、この世の富や性的なことについての秩序の破戒、神との関係を阻害するものに対する警告である。人間は、神の国のしるしを鋭く見分けなければならないこと、またそのしるしを発見したときには機敏に行動しなければならず、そのときには愛着を断ち切るために苦渋にみちた決断を強いられると考えていた。イエスの禁欲主義は経験的なもの、実際的なものであって、形而上学的なもの、二元論的なものではない。神の国を待つ終末論的な性格に照準が当てられている。新約聖書全体として見ると、「肉」とは罪に染まる可能性を持つもの(そして罪に陥ることが確実なもの)と見なされているが、それ自身において汚れたものとは見なされていない。それは贖われる可能性を持つものである。パウロは徹底的二元論に立つ思想家と解釈されても仕方のないような概念を用いているが、彼自身はそれを二元論的な意味で用いてはいない。しかし、新約聖書の記事のなかには、全体からそれだけを取り出して、一面的にいわゆる「禁欲」に利用される可能性を持つものもある。


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