「宗教改革から近代社会へ」(3)
野村 信 (東北学院大、アジア・カルヴァン学会書記)
<中世社会を支えた修道院>
1、中世末期までのヨーロッパ社会の大多数を占める一般民衆にとっての、目に見えるシンボルは、教会と修道院であり、ここに人々の心の支えと望みがありました。民衆の子供たちでも利発な子供は、修道院で学び生活し、修道院や教会に仕える生涯を送りたいと願ったものです。教会は人々が礼拝をしに日曜日に集まってくる所であり(1) 、一方、修道院は、ここで神に生涯仕えようと決心した人々が暮らすところでした。紀元後3、4世紀から始まったと言われる修道院が中世末期までどのようにヨーロッパ社会に文化的な影響を及ぼしてきたかをちょっと見てみましょう。
1)修道院には、付属学校が設けられ、ここで教育した。(主に聖書とそのラテン語の学び)
2)修道院で、古代の貴重な文献が書き写され、また書物が作られた。(写本室 scriptorium)
3)絵画・彫刻などの美術品が保存された。
4)合唱や音楽の演奏も行われ、音楽のさかんな修道院も現れた。
5)巡礼者の通る道の近くにある修道院や、町の中にある修道院は、療養所、医療施設を設けた。
6)毎日、時間を定めて、物乞いをする人々に食物を提供した。
7)寄進や寄付などを受領し、また荘園では、民衆を雇い入れた。
中世をとおして、このような高度な文化社会を修道院は築いたと言えます。このような文化が形成されていく思想的な背景には、非常に強い倫理観と神に生涯を捧げる献身的な意識がありました。これを総称して、「世俗外的禁欲 autherweltliche Askese」と呼んでいます。
2、さて、宗教改革によって登場したプロテスタント(新教)の世界では、修道院に篭(こも)ることが、聖書の求めている信仰者の姿ではないと判断し、修道院制を廃止しました。しかし、修道院で行っていた倫理的生活や神への献身という精神は、大事にしたのです。そうすると、どうなるでしょうか。
すなわち、人々は、自分の生活の場で(2) 、この精神を実践していったのです。つまり、父親は、誠実に仕事をして稼ぎ(天職意識)、母親は家庭を守り(結婚の奨励)、両親は子供に熱心に教育を施そうと務め(両親の教育義務)、母語の聖書を読み(聖書翻訳)、聞かせ、町村の集会や連帯を広げ(共同体作り)、周囲に様々な公共機関を生み出し(公共機関の発達)、社会全体を秩序のある共有財産としていくことを心がけました。これを総称して、「世俗内的禁欲 innerweltliche Askese 」と呼びます。
その結果、いち早く、プロテスタントの信仰の広がる社会では、地域が活性化し、産業(資本主義)が発達し、中産(市民)階級の人々が多く広がっていくことになったのです。これが、近代社会をいち早く生み出す要因のひとつとなりました。
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注
(1) 教会は、人々の魂の救いのために様々な儀式(礼拝やお祭り)、結婚式、葬式など生活上の行事などを行いました。教会参事会(役員会)は、政治的な領域にも深く関わりました。
(2) プロテスタントは、「巡礼」も退けました。お参りをすることが、自分の救いの功績になるという考えが、非聖書的である判断したのです。その結果、人々は、「自分の生活の場」で、神に仕えることが出来ると受け止めたのです。それは、当然、今、過ごしている地元に関心が集中したと言えます。

コメント
お便り受領しました。簡単にお答えします。1、宗教改革は、ヨーロッパ封建体制下にあって、「個人の自覚」を惹起し、「良心的人間の創造」、「合理精神の発展」、「自発性の高揚」などを促し、いずれは民主主義体制を確立するための内的主要因を民衆の中に育てました。参照:大塚久雄『宗教改革と近代社会』、阿久戸光晴『近代デモクラシー思想の根源』他。2、スイスはカントン・デモクラシーと今でも言われますが、16世紀に、宗教改革を導入した都市では、民主主義的な政治体制を確立しつつありました。世界史の舞台で話題にあがらないのは、町が小さかったことと、日本ではまだ十分研究も評価もされていないという理由からです。ジュネーヴなどは典型的な民主主義的・共和国制度を確立して行きました。参照、モンター『カルヴァン時代のジュネーヴ』、田上雅徳『初期カルヴァンの政治思想』他。終。
投稿: 野村 信 | 2006/01/19 11:25
こんにちは!宗教改革について伺いたいですが、よければ、お返事ください。
宗教改革はヨーロッパ政治の形成におけるどんな意味を持ちますか?具体例を挙げれば、どの国が一番典型的ですか?
投稿: 雅子 | 2006/01/17 15:40