「宗教改革から近代社会へ」(1)
野村 信 (東北学院大、アジア・カルヴァン学会書記)
魔術とは、元来メディア人のMagiという部族で行われていた儀式から来たと言われる。自然現象や人事の幸い・災いを支配するのはいろいろな超自然的な霊であるという考えから、種々の文句、儀式、供儀、難行などのいわゆる秘術(まじない)によって、それらの霊と交渉し、人間に奉仕させようとする態度を一般に意味する。
魔術(magic, Zauber)は、諸霊をあやつるという意味において、「アニミズムの技術・兵法」とも考えられ、宗教の、ひろくは文化の原初形態とみなすことができる。ギリシャの哲学史の時代から、ピタゴラス学派(BC5,4)の数論は一個の魔術的な思想であったし、プラトンは神々と人間との中間存在たるデイモンを考え、その学徒クセノクラテスはこれを悪魔と理解した。中世では「黒魔術」や「白魔術」などが流行したが、悲惨な結果を長く及ぼしたのが「魔女信仰」であった。ルネサンス期の時期には魔術的・秘術的な思想において近代的自然観の萌芽があるが、実験科学的方法でさえ当初は一個の魔術であった。そのような点では、近代的合理主義によって、ヨーロッパ全体は「魔術からの解放」が起こったと言える。
この「魔術からの解放」という用語を使用したのは、マックス・ヴェーバーであった。彼の著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で以下のように記す。
「予定、ないしは選び」の教説が、その壮大な帰結に身をゆだねた世代の心に与えずにはおかなかった結果は、何よりもまず、個々人のかつてみない内面的孤独化の感情だった。(中略)誰も彼を助けることはできない。牧師も助けえない、―選ばれた者のみが神の言を霊によって理解しうるのだからだ。聖礼典も助けえない、―聖礼典は神がその栄光を増すために定め給うたもので、したがって厳守すべきだが、神の恩恵をうるための手段ではなく、主観的にただ信仰の「外的な補助」―となるにすぎないからだ。また教会も助けえない、―真の教会に属しないものは神から選ばれた者ではないとの意味である。最後に、神さえも助けえない、―キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、彼らのために神は永遠の昔からキリストの購罪の死を定めてい給うたのだからだ。(多少修正)
このこと、すなわち教会や聖礼典による救済を完全に廃棄したということこそが、カトリシズムと比較して、無条件に異なる決定的な点だ。世界を「呪術(魔術)から解放」するという宗教史上のあの偉大な過程、すなわち、古代ユダヤの預言者とともにはじまり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ、救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥したあの「呪術(魔術)からの解放」の過程は、ここに完結をみたのだった。(156頁)
もう少し解説を加えよう。一体、中世がなぜ魔術化されていたのだろうか。それは、すなわち人類は長く魔術的な世界に捕らわれて来たと言えるが、中世の時代は、特に魔法にかかったかのような世界であったため、この世界を「魔法の庭」と言ったり、また「霊的インフレーションの時代」とも呼んだのである。すなわち、神に救われるために補助となると教えられ、天国にいくために有効であるとされる手段や媒介が、あまりにも多く作り出され、人々は、一種、「取り憑(つ)かれたような(魔法にかかったかのような)状態」にあったと言い得るのである。以下にその様子を記そう。
【霊的インフレーションの時代】
中世後半期における人々の宗教生活について解説すれば、それこそ「夥しいほどの具象的・視覚的な宗教世界が広がっていた」と表現できよう。以下に例をあげよう。
1、奇跡を行うこと 庶民たちは聖人たちに願うと奇跡が起こると信じていた。実際、聖人に列聖される人は多くの奇跡を行ったことになっている。たとえば、アンジューのルイ(1274-97)が死んだ後に作成された『奇跡の書』には、彼が221の奇跡を行ったとされ、そのうちの199例が病気の癒しに関係していた。トマス・ド・カンティリュプ(-1282)には、死後5年後に470の奇跡が帰せられた。当時、宗教改革者カルヴァンは、プロテスタントの新しい教えが人々の中に知れると、すぐに反対者から「奇跡によって(正しい教えかを)証明してみろ」と悪口を叩かれたことを書き留めている。
2、聖人と聖遺物、聖職者の数の増加 1300年から1500年の200年間に211人の聖人が列聖されたが、あまりに多く作り過ぎたと言われた記録が残っている。また人々は、聖人の遺骨や衣服などには奇跡的力(御利益)があると信じてこれを拝んだ。また聖職者の数が非常に多く増え、下級聖職者ともなれば、まるで「現代のどこかの国の官僚(公務員)のように」増えてしまい、「ならず者のたまり場」と嘲笑されたほどである。
3、巡礼 人々はこぞって有名な巡礼地や聖人の遺体のある所へと巡礼をした。それはまるで行楽地へ向かう人々の集団のような様子を呈した。途中で手厚い接待を受けたり、施しもあり、さらに浮浪者も便乗して、人々は取り憑かれたように移動した。また鞭打ち苦行の集団が各地で大量に発生し、既成の教会に不安を与えた。
4、夥しい聖画像 あまり多くの聖画が作られた。平板、カード、布地、本の挿絵、壁画、木彫の彫刻、さらにモノグラム(円盤のお札)などが大量に出回った。また通りや橋、辻では、聖クリストフォロスの聖画が掲げられていた。急速な発展が始まった11世紀には、これに批判的だったベルナルドゥスがむしろ感嘆し、さらにT・アキナスは積極的に神学による基礎付けをなした。(前期のテキストでも書いたが)英国司教のぺコックは、「聖画像がどこにでもごろごろしているほど多い」と嘆いた。
5、煉獄の強調による取り成し 中世に思想的に最も人々に影響を及ぼした思想は、煉獄の存在であった。1274年のリヨン会議で煉獄の教理が定められると、信者たちの功徳によって、教会が苦しむ死者の霊魂に助力を与えることが出来ると考えられ、これは「その後、恐ろしい力で生きている人々の心をつかんだ」。自分の霊魂と身近な人々の霊魂のために祈り、善行を積み、功徳の蓄えが多ければ多いほど、死後の煉獄での苦しみが減少するからである。そのための免償や執り成しの祈り、ミサは金銭によって買うことが可能となった。ブランデンブルク家の司教アルブレヒトは、3900万年分の免償を貯め込んだほどである。
【宗教改革が魔術からの解放を引き起こした理由】
これは、実に簡単に説明できる。すなわち、宗教改革は、上記の5つについて全て否定したからである。ただしキリスト教宗教そのものまで否定したのではなく、キリストの死と復活こそ一度の、二度と繰り返さない最大の奇跡と信じ、キリストに集中したに過ぎない。そこには「聖書のみ」、「信仰(恵み)のみ」の二大基本原理があった。さらにカルヴァン派は、「予定(選び)」によって魔術世界の残滓を捨て去った。

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